板橋区立美術館の脇にはのぼりが立っていて「隠れ家的美術館」と書かれています。
ちょうど、高台から谷に降りた場所にあり、
自転車だと、サーっと下りで勢いつけて通過してしまうし、
帰りは登り坂なので、この地点から立ち漕ぎで加速しようとしてしまいます。
なので、何度もこの前を通っているのに、毎回、通過していました。
隠れ家というか、見落とし美術館ですね。
こちらに観に来たのは「探幽3兄弟 ~狩野探幽・尚信・安信~」
昨年、東京国立博物館で、「京都 ― 洛中洛外図と障壁画の美」 や、
同じく、東京国立博物館で開催された「クリーブランド美術館展」などを観ながら、
日本の美術にも興味を持ち始めました。
板橋区立美術館は、江戸狩野派作品の収集で知られる美術館で、
毎年、いろんな切り口で、狩野派の展覧会を開催しています。
こちらは、昨年のポスター。
今回は、狩野探幽・尚信・安信の3兄弟にスポットを当てての展覧会です。
狩野探幽の「雪中梅竹鳥図襖」
徳川家光が、上洛の途中で名古屋城に立ち寄った時の迎賓の部屋に
作られた装飾襖。
探幽の絵は、余白を存分に生かした叙情的な絵で、僕は好きです。
十分に空間がありながら、枝振りや鳥の配置で、
流れるエネルギーのベクトルが見えるようです。
狩野探幽「富士山図屏風」
こちらも、白いもやで裾野を隠しながらも、富士の神秘的で雄大な姿。
狩野派は室町時代から幕府のお抱え絵師となり、
室町幕府崩壊後は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家など、
時の権力者に仕えて来ました。
実は、きっちりと戦略があり、豊臣崩壊間際には、
豊臣、徳川、朝廷と、どこが権力を握ってもいいように、
戦力を分散させて、それぞれに仕えてきたりもしました。
なんか、関ヶ原で身内を東西に分けた真田みたいな。
だけれども、江戸が終わり、明治に入ると、
明治政府は特定の絵師の保護を打ち出さなかった為に、
狩野派は、衰退していきます。
絵だけを見ていると、風流に描いていたんだろうなと思いがちですが、
狩野派は、徹底した摸写による、作風と作画技術の伝承を行ってきました。
絵師の個性ではなく、先祖伝来の筆法を忠実に学ぶことが求められました。
作風が統一されているので、
大人数でも大量の障壁画や屏風絵をこなす事が出来たのですが、
芸術的創造性を失っているとう事で、低い評価をする人もいるのも事実。
でも、その決まり事の中でも、探幽のように、
自分のカラーをきっちりと出してくる人もいます。
そういう所、尊敬してしまうし、
僕らの仕事も、しがらみもいろいろあって、ガチガチの縛りの時もあるけど、
そういう所でも、どこか自分ならではというのを、出さなきゃいけないんだろうな。